のっぴきならない。

退っ引きならない、と書くらしい。

 

引き下がることも避けることも出来ない、という意味だそうだ。

 

気分的には逃げたいし投げ出したいんだけど、そうもいかないし、さりとて前向きに進むには障害がありすぎる、といったところ。

 

人生とはのっぴきならないものである、という言い回しでなんとなくスッキリする。

 

生老病苦どのシチュエーションにあっても生きている限りには悩みがつきもので、悩むことそのものによっては、大概のことは解決しない。

 

物事を好転させるのには、考えることと、考えた結果を実行に移すことだ。

 

経験上、まじめに考えた結果の選択ってやつが自分を苦しめることってのはほぼなかったなと思う。

 

考えることを放棄して捨て鉢になった行動は後々の禍根や追加の悩みを呼び寄せるし、何もしないこと、待っていることで事態が好転することはほぼない。

 

その場で戦い続けること、ってのは何もしないことではなくて、その場で戦い続けること、なので。

 

肝心なのは決めることと、決めた後は迷わないことだ。

 

ああ、そうだったなと思う。

 

決めた結果で生きるしかないんだった。人生はのっぴきならないのだから。

 

 

 

 

 

恥の対義語。

26くらいで自分の恥ずかしさを自覚したが、36すぎて自分の面倒くささを自覚しつつある。

 

人間が美しくあるには自分を客観的には観察しているカメラをいくつ持っているか、というところが重要らしいのだが、カメラを取得する時期を間違えると自分をがんじがらめに捕まえて何にも出来なくしてしまう恐れがある。

 

恥という感情は恐ろしい感情だなぁと今更ながらに思う。

 

調べてみると、恥の対義語は誉れ、プライドだという定義があるようだが、どうも違う気がしてならない。

 

恥の対義語は勇気だ。

恥は人を縫い止める。

プライドは人を定義する。

勇気は人を歩かせる。

 

自分を見下ろす目線を持って、その上で勇気を出してあるけ。

 

 

祖母のことと割れた鍋。

寝る前に洗い物をしていたら、十年以上使っていた土鍋が真っ二つに割れた。


大事に使っていたわけではなく、こびりついたコゲや固まった米なんかを金だわしでわしわし削り取る、おおよそ酷い使われ方をしていた。

確か百均で買ったもののはずで、小ぶりなサイズで使い勝手が良く、結構な頻度で使用していたので、かなり頑張った方である。


ああ、コイツも寿命か、と考えた時に、先日百歳で亡くなったばあちゃんのことを思い出した。

百均の鍋と一緒に思い出すとか、ずいぶんとひどい孫もあったものだ。

ごめんよばあちゃん。


でも、生者から見て、寿命ってこういうものか、と思った時の感覚がとても近い気もしていて、この感触を忘れないように、書いておくことにする。


じつは、ばあちゃんのことは、もともと自分なりの整理のつもりで何度か文章に起こしてみたのだけれど、どうにもまとまらず、これは胸の中で消化していくものだ、と納得しかけていた矢先のことだった。


焦げて割れた鍋の間からふと、やっぱり書いておこう、という感覚が吹き上がってきたのだ。

ばあちゃんに、いいから書け、と言われたみたいに。


以下、ぼくの胸の中の感情を、割れた鍋で煮立てた煮こごりで、文字に書き起こす作業とする。


さて。


近しい人間といえば、親戚の伯母さんだったり、従兄弟だったり、友人の父ちゃんだったりの死を経験しているのだけど、ばあちゃんのお葬式はなんだか、今までのそれとはだいぶ違う感触だ。


近しい人が死んだこと、その悲しさや寂しさを注いだコップから、「命を使い尽くしたんだなぁ」という妙な納得感がじわじわと零れ落ちる。


2/22に、お袋から危篤の連絡があった時、悲しさや焦りや恐怖みたいなものより先に立ってあったのが、「今すぐ会いに行かねば」という義務感のような何かだった。

間に合っても間に合わなくても、行かなければならないと、予定調和のように身体が動いたのを覚えている。


もろもろあって二月を終えて、三月一日の葬儀のあと、ずいぶんと軽くなってしまったばあちゃんの入った骨壷を抱え、隣に座った伯母さんと話をした。あんなに落ち着いて伯母さんと話をしたのは初めてかもしれない。


「今ここにいる大半の親戚は、ばあちゃんが居ないと産まれてこなかったんだよね」


否応無しに、自分のルーツってやつを見せつけられる気分ではあった。


すべて終えたあと、家族でコーヒーを飲んでいた時の気持ちは、コップからすべてが零れ落ちて空っぽになったような気持ちだった。

ほんとうに、何も残っていなかった。


空虚、という意味ではない。

命のロウソクが、一滴残さず蒸発して消えてしまった、という意味で、使い切ったのだ。


これは、おおよそ寿命で命を終えた人の前に立ち会ったものでないと経験できない感覚なのかもしれない。

 

ばあちゃんの宝物でもあった可愛い盛りのちいさな甥っ子は、


「ばあばあちゃんはどこいくの?宇宙にいくの?」


としきりにしつもんしていた。


天国は空の上、と空の上は宇宙、という二つの新しい知識が、ばあちゃんを通じて混ざり合っているかのようだった。

コップから溢れた命が、役目を終えたロウソクの火が、彼の瞳の中でふつふつと湧き上がっているようにも見えた。

その時、寿命を全うするということは、かくも美しいものを見せてくれるのだな、と感動すらしていた。


晩年のばあちゃんは寝たきりになっており、幸福か不幸かについては察することしかできないのだが、残った家族がこんなふうに思い返せるのだとしたら、百年間生きてくれてありがとう、と言うのが今の正直な気持ち。


百年は難しいかもしれないが、ばあちゃんにがんばったね、と褒めてもらえる程度には、前向きに生きてみようと思います。

 

ちなみに割れてしまった鍋について。


実家に持って帰ってばあちゃんの墓前に、と一瞬おもったりもしたが、こんなもん持たされてもばあちゃん困るじゃろ、と思い直し、素直に燃えないゴミとして出すことにした。


その代わりに、四十九日には東京土産を持って帰って仏壇に上げておくことにする。洋菓子を買って、一緒に紅茶でも飲みましょう。


もはや、実家に帰るほどの頻度では会えそうにないけれど、また会う日を楽しみに。

 

適。

ある人から変わった人だ、という評価を受けているらしいという話を聞いた。

 

人間は、と拡大解釈するのはあんまり良くないが、あえて人間は陰口を言うものだ、と断定しようとしていたら。友人がとても良きリンクを上げてくれたので転記する。

 

https://donutnews.com/27919?utm_source=Facebook&utm_medium=FBpage

 

適者生存。

 

生きづらさってつまり、適していないことが原因なのだけど、今感じてる辛さの大半って気持ちの問題でしかなかったりする。

 

生まれた時からその場にフィットして生きている人間はいなくて、その適するように生きることで人間は一見〈強く〉なるわけだけど、弱肉強食目線で言えばそれは全然強くない。

 

資産が多い、仕事ができる、なんだっていいが、それは組まれたルールの上のものだ。

 

大概の場合、自分が望む姿があり、そこに届かないと人は不満を持つのだけど、陰口やら悪口ってのはそこから発生するものなんだよな。

 

みんな、どうにかフィットしようとして大変なのよね。

 

 

三日目、エリーゼのためにとその他。

文書を本当に書けてない。

Facebookやインスタと連携すると、いるかいないかわからん読者を気にして文章が縮こまるってことに気がついたので、しばらく投下するのをやめることにする。

気が向いたら復帰するかもしれないが。

 

Twitterをやってたころ、ホームページを運営してた頃はホント狂ったように書いていたことを思い出す。

たまに自分の文章を読み返してみると、下手になった、と思うのだが、Facebookのおせっかいで過去の文章が上がってくるのを読んでみると大したことないんだよな。

思い出は美しい、というのと、自分の評価はあてにならんというのと、鏡には自分の望む姿しか映らないということを実感する。

 

ともあれ、いろいろ吐き出したいことも多いのでしばらく無駄な文章を書き綴ることにする。

まずは分量。

そこそこの分量を書くのになれたら、そこから削り込んでいく方針とする。

 

さて、本題。

電子ピアノ購入から三日経ちました。

 

きらきら星をマスター?したところで、そこそこちゃんとした曲を弾きたくなってきた。

 

いくつか思案した結果、初心者向けの練習曲という印象があったのでエリーゼのためにに挑戦してみること。

弾き始めてしぼし、初心者には異様に難しいということが、練習していて発覚する。

 

楽譜の中に、なにやらちっちゃい音符がちらちら出てきたり、いきなり2オクターブすっとんだりしている。

 

装飾音とか前打音とかいうらしい。

あー、クラシックのピアノ聴いてるとたまにあるちゃららん、ってやるあれか。

 

ちゃららん、ちゃららん。

いやいや、無理だよ、そんな軽く動かんて。

とか考えながらもかじかんだ指で練習を続けるのが楽しい。

 

少しでも先に進めることとか、昨日より先に進めてることがとても楽しい。

なんとか右手の譜読みを終えて片手で一周だけ回した。

 

二週間くらいでまともに弾けるようにはるかしら。どうかな?

 

 

きらきら星(初)

立派?なオーディオヲタクに返り咲いてから、生音が聞きたくて近所のジャズバーらしきものを探しあてた。

 

中を覗いてみると所狭しとギターやらアンプやらピアノやらの楽器が置いてある。

まさに立錐の余地なし、人間の立ってる場所より楽器の占有スペースのほうが多いのでは?といった具合。

 

ミュージックチャージを払って弾いてもらう、みたいな場所を想像していたら、さにあらず、お客さんが飛び入りで入ってきて演奏する音楽コミュニティバーといった具合のところでした。

 

玄人はだしのお客さんが弾いているギターなんかを聴いていると、自分もなにか弾きたい、弾きたいとうずうずしてくる。

が、子供の頃にピアノを1年くらいやって以来、ギターを二台ほど買って弾いてみたりしたのだが、結局まともにモノにならず粗大ゴミ化したり、また実家のアップライトピアノは高価な置物と化しているしで(つまり兄妹三人がにたようなもん)正直続けられるかどうかってところに一番の心配どころがあった。

 

思案すること一ヶ月、二回ほどお店に通って、弾きたい!弾きたい!という欲が収まらなくなってきたので、結局17000円ほどの61鍵盤キーボードを購入することにした。

 

ちゃんと弾くならばしっかりした電子ピアノ、というのも考えたのだが、そもそもフルサイズ88鍵のピアノはでかすぎて、スタジオ用の持ち運びに耐えるものでも最低10キロはくだらない。

 

仮に飽きずに続けられたとしても、狭い1LDKの中での取り回しで頭を抱えること必須だ。

であれば、まず小型で取り回しのよいキーボードで慣れておいて、どうあってもしっかりしたものが使いたい!となったタイミングで設置場所も含めて検討すればよい。ということになった。ちなみに購入したのはコレ。

 

www.amazon.co.jp

 

 

とてもいい買い物でした。

アルミの筐体?は2万を切るとは思えないしっかりしたもの。

薄く軽く取り回しもすばらしく、邪魔になったらどっかに立てかけたりしまったりが簡単にできる。

 

肝心要の音とキーボードはまぁ、お値段なりではあるものの、もともとまともに弾けていない上にブランクも長いので、こんなものだと思ってしまえば納得。

とりあえず購入記念の動作確認がてら、きらきら星を一曲弾いてみた。

 

ネットで無料の楽譜を拾いつつ、なんとか弾ききってみた。

案外どうにかなるもんである。楽しい。とても楽しい。

MIDIキーボードとしても使用できるらしく、早速録音してみた。

 

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そんなかんじで、がんばってピアノ弾けるようになるぞー。

最初の目標はバーで演奏だ!

 

 

西高東低自己肯定。

おはようございます。

昨日もちょっと遅かったので調整して午後出勤にして今浅草線に乗って移動中です。


さて、ある方から質問をうけたので自己肯定感が不足するとこ、について考えてみました。

参考になるかわかりませんが、僕も最近悩んでいたことなので書いてみます。


まず、人間て結構言葉に踊らされることが多い、という前提で。


一言で言うと、大概の場合、自己肯定感がないなんてこたぁない。です。


自己肯定感、て言葉が流行りだしてから、〈自分には自己肯定感がない〉みたいな感想を抱くことが多かったのですが、これって間違いで、僕が抱いてたのって自己否定感なんですよね。


肯定されることが前提、肯定しないと不幸、の0-100の世界じゃなくて、ちゃんと自己否定の0-100分も存在している。

 

自己肯定感がない、って言ってる人たちは大概肯定感の不足で不幸を感じてるわけではなく、否定感があるから肯定感がない、と勘違いしてるだけじゃないかと思います。


だって、自己肯定感云々を論じる余裕のある人たちってそもそも衣食住足りて+自己肯定!みたいな欲張りな人たちなので〈僕もかなり欲張り〉、そんな人たちに肯定要素がゼロ、みたいなことがそもそも考えづらいです。


なので、だいたいはアプローチが逆で、自己肯定感を増やす、なんて霧の中を搔きまわすアプローチは不要。


自己否定感を与える犯人を絞首刑にする、または犯人を捕まえて〈気にしない〉牢屋に収監してしまう。


これのどちらかで自己否定感が大幅に減少するはずです。


気難しい嫌味な上司に対する対応について、言い返して黙るような相手なら言い返しますし、ダメなら〈この人の言うことは聞き流すことに決める〉とか。


他人軸の場合はこんな感じで逃げられますが、失敗なんかに起因する自己評価の軸の場合、自分で勝手に失敗してクヨクヨするマッチポンプ式なのでもう少し面倒くさい。


でまぁ、僕の場合。

失敗の原因は大概


1:睡眠、休養の不足

2:緊張

3:準備不足


で、失敗したあとこいつらのどれかのせいにします。


1が原因であれば、特段急ぎの用事がない時はとっとと休みます。人の迷惑より自分のパフォーマンス重視。


2が原因の場合、あらゆる方法で緊張を緩和する方法を考えます。

これは別枠の話題なので多くは書きませんが、緊張って精神トリガーで肉体が固まることなので、肉体へのアプローチが効きます。

冷たいものを飲んだり、体をほぐしたり、自分なりのスイッチがあればなんでも。


3の場合、次の機会に頑張るか、そもそも頑張らずにこれは捨てるかを切り分けてから忘れます。


この三つが足りていてそもそも失敗するのなら、それはそもそも出来ないことに着手しただけなので諦めます。


そんなかんじ。


自己否定感てやつは、多く失敗の積み重ねや他人からの評価に紐付いているものだと考えているので、実はデジタルな切り分けでどうにかできるものが大半かと思います〈一部無理なもんは無理なのでそこは諦める〉。

もちろん、自己否定の沼にハマった状態で、そんな簡単にできないよってのもごもっともですが、結局不幸や自己肯定なんてのは脳みその思い込みなので、どんな物理的な努力より思考実験や行動パターンの切り替えがいちばん効くと思っています。


で、自己否定感がほぼ解消された時点でそれでも〈自己肯定感ないなぁ〉とか感じてるひとは、たぶんかなり幸せなひとなので勝手にしてくださいというかんじ。


最近いろいろクヨクヨしなさすぎてむしろ危機感の無さに危機感を抱いてきたところ。

人間〈というか自分〉てそんなもんなんだなと割り切りが必要かと。

 

と思ったら品川の京急線乗り換えミスってしまった。

会議に遅れる言い訳考えなきゃ…。